危険と隣り合わせの子供の頃のとんど飾りHomeへ⇔随想集へ危険と隣り合わせの子供の頃のとんど飾り 小学6年生が、3,4メートルはあろうかと思われる枯れ始めた松の木や雑木の根元を荒縄で引っくくって、標高400メートルほどの山の頂上から、激しい雨水の流れでところによっては4,50センチほどの深さに坂道の真ん中が掘り裂かれて曲りくねって深い溝が出来て岩肌が牙をむき出している急峻で危険な、それでも一応は山道と呼ばれている、この山道を、藁ぞうりを履いたままで、右に左に飛び跳ねるように、足場を一歩一歩捜しながら駆け下りて、トンド飾りを組み上げる田圃まで運び込む。 山すそは標高100メートルほどであるから、実に数百メートルほどの危険な坂道を、枯れ始めているとはいえ、大木を引きずって猛スピードで駆け下りるのである。 足元の足場になる場所を一瞬の判断で見つけながら、である。 時には、踏んだ小岩が崩れそうになることがある。 そんなときには、素早く次の足場を見つけて崩れる前に体重を移さなければならない。 安全なところまで降りるまでは、一瞬たりとも気を抜くわけにはいかないのだ。 引っ張っている枯れ木が、途中で両側の木立や、雨水に掘り裂けられた岩肌に引っかかると、手に持った縄の端を離して直ぐにスピードを落としながら走り降りて止まったところから、山路を登り戻って手を離した木のところに戻って、また木を引きずって駆け下りる。 手に持った縄から引っ張っている木が木立か岩に引っかかるような少しでも異常な荷重を感じとると、すかさず縄を手離さなければいけない。 縄から手を離すタイミングが遅れると、後ろに引っ張られて倒れて後頭部を山肌に打ち付けてしまう。 そこに、牙のようにむき出した岩でもあれば、そのまま"おだぶつ(命を失う)"である。 自分の足元ばかりでなく、自分の前を駆け降りる友達の動向にも充分に注意を払う必要がある。 勿論、間をあける距離も非常に重要である。 車で言えば、車間距離のことである。 一歩間違えば、大怪我をするどころか、命を失う作業である。 ※ ※ ※ この時分は、子供たちは、山でよく遊んでいた。 わらび、ぜんまい、だんじ(すかんぽと呼ぶところもあるようだ)、あけび、まったけ、山栗、山ぶき・・・ 山は、食材の宝庫であった。 松の木から流れ落ちて固まった、松ヤニを見つけては、ガムとして噛む・・・ 最初は松の苦味があるが、そのうちに、口当たりのよいガムになる。 名前は覚えていないが、2ミリくらいの草色の小さな実のなる木を見つけて、そに小さな実を5,6粒摘んで口のなかで噛む。 粘りのある実で、松ヤニのガムに混ぜて噛み込むと、実に絶妙の硬さのあるうまい天然のガムに仕上がる。 膨らませて風船には出来なかったが、この自然の惠のガムのお蔭でもあろうか、今でも28本プラス親知らず2本全部が自分の歯である。 ※ ※ ※ トンドの材料一式そろえて、組み上げるのも、小学生の仕事であった。 茸山が終わると、山の上からトンドを組む材木を引きずり下ろすことから、始める。 茸山とは、マッタケを採るために関係者以外は入山が禁止されている山とその期間のことである。 入札の行われたマツタケ山は、落札者か落札者が承認した人以外、所有者でも入山することは許されない。 トンドの材木を求めて、山に登るのは、4年生以上であった。 五年生は、少し小さい2,3メートルの小さな枯れ木を引きずりおろし、四年生は手ぶらで荒れた山道を駆け下りて、上級生の手綱さばきとその作業の怖さを肌で感じて覚えこむのである。 また、駆け下りる坂道でこけても擦り傷より大きな怪我をしないこけかたを身に付けるのである。 ※ ※ ※ そして、冬休みに、トンドを組み上げるのであった。 ※ ※ ※ 今思い出しても、背筋が寒くなって、ぞっとするようなことを毎年、誰一人ケガもせず、やってのけていたのであった。 5,6年生の小学生が… それが、現在では、殆ど大人の手で材料を集めて、田圃でトンド組んでいる。 それも、納屋や家屋をつぶした廃材や製材所で頂いた不用材などで・・・ 今では、冬に麦の栽培をする田圃はすっかりなくなってしまっている。 ヤマが荒れて保水力が落ちて、洪水などの災害の原因の一つにもなっているような気がする。 最近のとんど飾り 毎年、1月14日の夕方に点火するとんどは、正月飾りや古いお守りやお札を燃やしたり、 すっかり堅くなってしまって出刃包丁を当てて槌で叩いても切り割れなくなっている大きな鏡餅をとんどの残り火で焼いて柔らかくして切れるようにしたり、 年末の忙しさとお正月の身内との談笑の日々から解放されて、 久しぶりに近隣の人々同士の談笑のひとときを過ごすための暖をとる憩いの場であったりするのである。 とんどの火で身体を暖めれば風邪をひかない(無病息災)、などの言い伝えも、年末年始の家の中にこもり続けの陰の気から陽の気へと抜け出すための意味も含まれているのであろう。 時には、古くなって傷んだ人形を燃やして人形供養をすることもある。 じっくりと餅を焼いていると、体中がほてってきて冷たい木枯らしの中を家路についても、寒さを感じないほど身体がほかほかしている。 "寒中暖あり" のひとときである。 翌日の朝は、トンドで焼いた鏡割り餅を入れた小豆粥を食べて、邪気払いと万病の予防をする。
こんな書初めもある。 これも、『今の世の中』か? これは、バイオカイトである 風を受けてあがる凧とは違って、航空工学理論から生まれた風がなくてもあがる凧である。 組みあがったファルコン これでも、300メートルは軽くあがる。 ファルコンの組み立て説明図 説明図どおりに簡単に組み上げることが出来る。 キャリングケースの絵 バイオカイトは、トンビと一緒で風が無くても、飛ぶ事ができる。 トンビが仲間と見間違えて寄ってくる凧である。 これも、『今の世の中』である。 乾燥中の稲藁。 間伐材で三脚を組んで、これをいなきあしとよんでいた、このいなきあしに太くて長い杉の間伐材をかけて、これをいなきとよんでいた、このいなきに、刈り取って束ねた稲を架けて天日乾燥する。 それが今では、こんな稲藁干し風景になってしまった。 これも、『今の世の中』の風景である。 ※ ※ ※ 『温故知新』 古い時代の智慧が、新たな智慧を生み出すきっかけにでもなれば嬉しい、と思う。 よろしければ『ポチーッ』とお願いします。 |